バスキア展で考えるアートの価値

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文字数:8,158字 | 読了目安: 約11分 | 公開日:2019.11.07 | 更新日:2021.03.27

六本木ヒルズの森アーツセンター ギャラリーで開催されている「バスキア展」を見てきました。森美術館は写真撮影OKの企画が多く、SNS活用事例としても参考になることが多い美術館です。

ZOZOの前澤友作氏が123億円で落札した作品が展示されるという話題作りもあり、若者を中心に多くの来場者でにぎわっていました。今回はバスキア展から感じたこと、アートについて考えてみます。

アートの価値

アートの価値・評価は人それぞれです。ゴッホが村上隆より格上でもなければ、その逆でもないでしょう。個人の評価には、どちらが好きとか評価の相違があって当然で、誰かに強制されるわけでも、個人のレベルでは何らかの基準に従わないといけないわけでもありません。自分の感性で、好きなものは好きで良い世界だと思います。

その上で、人気があるアーティストは自然と社会的価値が高まり、そうでないアーティストは低くなります。ここまでは、そういうものとして納得できます。しかし、共有的評価基準を、社会としてどう構築するかは議論の余地があるところでしょう。特に批評家や画商、アート系のメディアやコミュニティ、作品を世に出す側のプロデュース、プロモーションの力で、価値が高まったり、低くなったりしている状況を考えると、違和感が爆発します。

特に現代アートは、その背景に商業主義や金融投機的なものを感じずにはいられません。今回のバスキア展でも、違和感を抱かずにいられませんでした。

1980年代、アンディ・ウォーホール、キース・ヘリングらとともに、ニューヨークで生まれたポップアートは、アートの歴史の1ページとして一定の意義は感じるのですが、数百億円の価値を付けるほどのものとも思えません。

アートの文脈から再評価する部分もあるのかもしれません。しかし、個人的には作品も展示もなんだかな〜という印象でした。バスキア本人のエネルギーや感性を感じるような演出でもないし、かといってアート史の中で、どう評価するかという俯瞰した視点からの解説や編集があるわけでもなく、最近見た展示の中ではもっともつまらないものでした。

今年3月に奇想の系譜展で見た白隠慧鶴のドローイングの方が、ロックというかポップというか、破天荒なエネルギーに満ちあふれていて、躍動感や刺激的なものを感じました。まぁ、好みの問題ですから好きな人はお好きにどうぞですし、同時に開催されていた「塩田千春展:魂がふるえる」の方が混雑して入場待ちになっていた位ですから、今回のバスキア展は世間的にも、いまいちの評価だったのかもしれません。

もっとも、わたしはクリエイティブな人、アーティストは基本的にリスペクトしています。当時のニューヨークのストリートアートには憧れや共感みたいなものもあります。バスキア本人のクリエイティブにも興味があったので展示会に足を運んだのですが、商業的に仕掛けられれば仕掛けられるほど、反骨心というか、生来の天の邪鬼精神がもたげてしまうのです。

アートとの出会いは繊細な面も

特にアートとの出会いは繊細です。無粋なシャッター音が鳴り響き、群衆が撮影に興じる状況で、人波に流されていては、あまり良い環境とは言えません。さらに、エントリーするともう1回無料で見られるキャンペーンにも行列が出来ていたり、プロモーション色が強く、何かと商業主義的なバックグランドを感じて興醒めすることが多い展示会でした。まぁ、とか言いつつ、ぼくも「これが123億の作品か〜」とか言いながらミーハーに撮影してきたのですが・・・。

いっそのこと、照明を薄暗くしてラップミュージックでもがんがんにかけて、ニューヨークらしいサイレンでも鳴らし、ペイントに使われていた画材や絵筆などをちりばめた状態にしてくれた方が、バスキアの世界観や当時の空気感に没入して作品を楽しめたのかもしれません。

話がそれますが、iPhone のシャッター音は下品です。Apple は音のデザインには優れたセンスを持っているはずなのに、もう少し上品なものに出来ないものですかね。群衆が撮影モードに入ってしまったときに、シャッター音と撮影行為によって作られる場の、あの空気は最悪です。諸事情を考えると仕方ない面もあるとは言え、シャッター音の強制仕様が日本だけというのもとても腹ただしいことです。

シェアするアートという、森美術館の方針は共感出来るものですし、世界的に見てもアート作品をオープンにして活用していくことが潮流になっており、美術館や博物館での撮影OKという傾向は好意的にとらえているのですが、品のないシャッター音と群衆化した撮影者によって損なわれる雰囲気について言えば、失うものも大きい気します。マナーとして、無音撮影アプリを使うぐらいの意識は普及してくれると良いのですが。

アートの社会性

話を戻すとバスキアを解釈する上では、アフリカという文脈もありますね。たまたま、今年の3月に世田谷美術館で開催されていた「アフリカ現代美術コレクションのすべて」を見ていました。

見い出し、育てるアート

ブルーノ・ムナーリ展を見に行った際、同時に開催されていたので、あまり期待もせずに見たのですが、アフリカの持つ独特の感性の「いま」が感じられ、なかなか刺激的で楽しいものでした。世田谷美術館はアフリカのアートに早くから注目して、アフリカの現代アートをコレクションしているようです。

アフリカのアートに詳しいわけではありませんが、我が社から車で10分ほどのところに、アフリカンアートミュージアムがあることもあり、関心を持っている分野の一つです。

北杜市長坂町にあるアフリカンアートミュージアムには、魅力的な作品が収蔵・展示されていて、名もなきアーティストの作品に感性をゆすぶられることもあるし、深い思考を触発されることもあります。あまり、混雑することもなく、ゆっくり作品を鑑賞出来ます。

動物がモチーフの作品も多いですし、生きもの好きにとってはアフリカは憧れの土地の一つでもあります。アフリカの大地を思わせる力強く自由な表現、プリミティヴな造形と色使い、アフリカの空気やそこに住む動物、自然、人の暮らし、それらの関係性、より根源的で普遍的な感性、そういったものが感じられます。わたしは、どちらかと言えば、こういう感性でダイレクトに感じるアート体験が好きです。

一方で、文脈を知らないと意味不明なもの、画商やオークションによって価値をつり上げられているアート作品、評価が高まった過去の作品に莫大なお金が費やされていく状況を見ると、興ざめしてしまいます。

このブログでも書いたことがありますが、日本の企業、社会、行政を含め、勝ち馬に乗ろうとする人ばかりで、自ら価値判断していないような迎合現象が嫌いです。世田谷美術館のように無名のアーティストを発掘するような活動の方が好きです。

もっとも、商業的に成功させないと、見てもらう、知ってもらう、関心を持ってもらうことが難しい世の中になってしまったので、アートや教育、環境保全や野生動物保護等に関わる人たちの悩みはつきません。

コレクションとキュレーションが生む価値

ZOZOの前澤さんは、個人的なバスキア愛ならお好きにどうぞなんですが、何か社会とのつながりを編集するなり、メッセージ性を付与するなり、コレクションとしての価値を構築しないと長続きしないような気もします。余計なお世話と半分やっかみですが・・・。

宇宙旅行の件を含めてパーソナルブランディングとして、若者に夢を与えようという意図で派手に立ち回っている面もあるのでしょう。古い社会の価値観に対する不信感や閉塞感をブレイクしたい気持ちもあるのかもしれません。そんな思いの象徴としてバスキア作品を愛しているのでしょうか。これからもバスキアのコレクションや再評価にも取り組んでいかれるのか、気になるところです。

無名だった伊藤若冲を見いだしたジョー・ブライスさんは、日本人の持つ美的感覚を理解する感性を持っておられ、若冲の作品を高く評価し、純粋に愛していたように思います。ブライスコレクションは出光美術館に移り、末長く保存・管理・研究・展示が行われることになるでしょうから、素晴らしい展開事例と言えます。日本には、過去を見ても現代を見ても、まだまだ価値あるアーティストと作品がたくさんあるはずです。

123億円の100分の1でも、若手アーティストの支援や日本美術・芸術の中で埋もれているアートの発掘、アートを介した文化交流など、かなりの活動が出来るはずです。まだ見ぬ才能を見いだし育てることや、いままさに活動しているアーティストの交流を支援するようなことに、もっとお金が回るようになれば良いのになぁといったことを考えてしまいました。

例の品のないお年玉企画みたいなばらまき、話題作りではなく、ちゃんとクリエイティブを支援するという大義を立てて募集した方が良いんじゃないですかね。お年玉なんて子供にあげるような企画にしたのでは、もらう方の自尊心を無意識に傷付けてる気がします。

アートとお金のビミョーな関係

アートの根源は、表現する方も鑑賞する方も、すべて個人の感性によるものです。しかし、美術館や美術展を企画運営する上では社会的評価やお金が必要です。アーティストも生活していかないとなりません。そういう意味で、お金は必要なものであり、清貧の思想だけでは芸術活動も持続可能ではありません。

一部の美術関係者の中には、お金を否定的に見ている人もおり、アートとお金はビミョーな関係性にあります。日本の美術系の人は清貧が板についてしまっていて、村上隆氏のような人を否定的に捉えている人も多いようです。しかし、グローバルな現代アート市場の最前線で勝負する気概、彼の考え方などは、多様なビジネスや活動にも通じるものがあり、見習うべきことがたくさんあります。わたしは彼の作品は好きではありませんが、活動はリスペクトしています。

アートは個人のものであり、公共のものでもあり

アートには文化財としての公共性、公益性もあり、企業や行政が財政的な支援をすることも期待されるわけですが、公共部門も民間も予算を削られる傾向がそこかしこで見えて、残念なことです。一方で、地方創生に関連してアートイベントがブームっぽくなってきていて、一時期のゆるキャラブームの後は、アートイベントになりそうな気がします。長年、地道な取り組みをしている美術館や博物館、学術関係からは予算が削減される一方で、うわついたアートイベントに予算がつくような矛盾が生じていそうで、またしても、行政の無節操な予算獲得合戦と無駄使いも懸念されます。

アートの公共性や共有的評価を醸成する上で重要なことは、文化・歴史を含めた関係性や地域特性、独自性であり、同時に普遍性を見る目とセンスではないかと思います。地域とのつながりをどう見出すか。

バスキア展もMade in Japanという副題がついていた位ですから、日本との関係性を出したかったのかもしれませんが、あまり心に響くものではありませんでした。

見る目とセンスと独自性

日本の文化、風土、歴史、社会の中で、アートを自分たちのものとして、どのように共有していくか俯瞰して自覚的に考えておきたいものです。ユヴァル・ノア・ ハラリ氏がサピエンス全史で指摘したように、人類が高度な文明・文化を発展させてきた原動力は、神話や伝承、感性や価値観などの目に見えない体系を共有していることにあります。

レヴィ・ストロースがトーテムや神話を評価したように、いわば密教的なエネルギーの持つ力は強大です。一方で目に見えない価値体系を共有している集団内では、迷信のような行動の制約を生んだり、洗脳的な手法で悪用されるリスクがあることも自覚する必要があります。

可視化されにくい価値体系の暴走は、経済的にはバブルの発生であり、宗教性や精神的には戦争や差別につながる危険なものです。

そう考えると、共有する価値体系が、未来のより良い社会を構築することにつながっているかを評価の軸とすべきではないでしょうか。集合的な価値体系を構築して、公的あるいは共有的評価を与える課程には、もっと自覚的で自省的ある必要があります。

自然と生きものへの共感

わたしが考えるアートの重要な評価基準の大切なものの一つが、自然であり、生きるものへの共感です。自然や生きものと共生していくことが、日本人の根源的なアイディンティの一つだと考えています。

自然と生きものを見事に描いた伊藤若冲もジョーブライスさんが収集してくれていなければ、日本の貴重な文化が一つ失われていたことになっていたかもしれません。多くの日本のアート作品が適切に保存、管理、収集、展示されることもなく、散逸したり、死蔵されたり、海外に流出している現実は残念なことでもあります。

我が社で手掛けている薮内正幸さんの動物画グッズも、もっと、薮内正幸という動物画家のことを知ってもらいたいし、薮内さんの伝えたかった動物たちの魅力を広めたいという想いで取り組んでいます。

薮内正幸美術館は、2000年に薮内正幸さんが亡くなられたときに、作品の散逸を懸念された有志の努力で2004年に設立され、今年で15年になります。薮内正幸さんの場合は美術館が出来たため、作品の散逸は免れていますが、作品を保存・維持・管理していく負担は大きく、個人美術館を運営していくのもなかなか難しい世界です。

我が社は同じ北杜市内であり、同じく生きもの好きいうこともあり、薮内正幸美術館と協力して、少しでも生きものを好きになる人を増やせればと思って活動しています。しかし、零細IT企業と個人美術館では出来ることに限界もあります。また、もともと図鑑や絵本という印刷物の版下として制作されていて、あまり良い紙や絵の具が使われていないこともあり、作品の劣化も日々気になっています。デジタル化、アーカイブ化も急がないとなりません。

アートから次の世界へ

アートは個人的な動機と感性から生まれるものですが、社会に広まる過程では社会全体としての評価軸や基準が必要です。社会に良い影響を与えるアートに、共有的評価を与えていくべきでしょう。一例を考えると、次のような作品の評価の高まりと展開を好ましく思います。

2018年、鳥類研究家で画家のオーデュボンの遺した鳥類図鑑「アメリカの鳥類」の現存する10 数セットのうちの一つが、クリスティーズで10億円で落札されました。米国実業家でナチュラリストの Carl W. Knobloch Jr 氏の所有していたもので、収益は動植物および自然の生息地保護に役立てられるとのことです。

オーデュボンとアメリカの鳥類については別の機会にも取り上げますが、こういう展開は素晴らしいですね。この事例のように、アートが人々のハートを刺激し、明日のより良い社会を築く原動力になることを願ってやみません。

日本のアートを大切にしよう

日本では、昭和初期に活躍された野鳥画家の小林重三さんの原画は、一部が山階鳥類研究所に残っているものの、かなり消失してしまっているようでもったいない限りです。2015年に町田市立博物館で開催された展示会を見逃してしまったのが残念です。生物画では牧野四子吉さんも、2004年頃に大阪自然史博物館で展示会が開催されたようですが、保存・管理などはどこかで行なわれているのか気になります。日本のファーブル、クマチカさんこと熊田千佳慕さんの作品は20年位前に横浜美術館で原画を拝見しましたが、その後、2010年に熊田千佳慕展が全国開催された後は、お見かけする機会がなくなりました。精緻に甲殻類を描いた博物画家杉浦千里さんの作品は、神田の文房堂ギャラリーで隔年毎に開催される展示会で数点を見ることができるのみです。

動物画家、生物画家を中心に紹介しましたが、絵本や漫画の世界でも著名な作家で亡くなられる方も出てきており、こうしたアート作品の行く末も心配です。

海外のアートも良いのですが、もっと日本のアートへの関心が高まり、支援してくれる実業家や資本家、行政や有志があらわれてくれればと思っています。特に自然や生きものを描いた作品と作家は、自然を愛する日本人の象徴でもあり、もっと大切にし、誇りに思うべきなのではないでしょうか。

まぁ、このへんのことはわかるひとはわかっているはずで、そのうちどこかの企業や財団が手がけてくれると、期待しています。こうした活動に関心のある方や情報がありましたら、ご連絡いただければと思います。

余談ですがちょうど同じ時期に六本木ミッドタウンの21_21 Design Sightで虫展が開催されていて、こちらの方は期待していたより楽しいものでした。昆虫の造形の不思議さ、色彩の美しさにシンプルに感動するだけでなく、総合プロデューサーの佐藤卓さんを始め、デザイナーやアーティストが昆虫をモチーフとした多様なデザイン的視点を提供してくれますし、監修の養老孟司さんは人間にも通ずる生きものとしての本質を考えさせてくれます。

もう少し虫たちが生きていること、生きものとしての知性にフォーカスして欲しいところもありましたが、まぁ、自然や生きものをモチーフとした企画自体は大歓迎で、生きもの好きとしてはたいへん楽しい展示会でした。

ということで、強引にまとめるとわたしからのメッセージは「生きものと日本のアートを大切にしよう!」でした。

参考書籍

若冲の描いた生きものについて、種として同定出来るものは写真で紹介し、解説してくれます。その精細かつ緻密な筆致を実感するとともに、絵画ならではの誇張や飛躍、構図の大胆さなど、若冲の魅力を再認識させてくれる書です。

銀座のギャラリーで原画を見たことがありますので印刷物の限界を感じずにはいられませんが、博物画としての精細さ、存在感の迫力は本書からも感じ取れるはずです。若くして亡くなられてしまった杉浦さんですが、後進の指導にも熱心だったそうで、本書でも博物画の制作行程が解説されています。

何の番組だったか覚えていませんがいつだったか映像で見た、地面に這いつくばり昆虫を観察されるクマチカさんの純粋さ、真剣さ、楽しそうな姿がとても印象に残っています。

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