科学かアートか〜デジタル化の本質〜

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文字数:11,784字 | 読了目安: 約15分 | 公開日:2019.04.01 | 更新日:2023.07.28

Appleの創業者スティーブ・ジョブズのプレゼンに、Appleをテクノロジーとリベラルアーツの交流点に位置付けたものがありました。

アナログとデジタル、文系と理系、情動と論理、技術と感性など、対極に位置するような言葉や概念の交わるところ、統合・融合する考え方には、創造力を発揮する秘密がありそうなことは確かです。

DX=デジタル・トランスフォーメーションは、単なるデジタル化にとどまらず、企業や社会をITが根幹から変革していく現象を表す言葉です。AIや生命工学の進化には倫理的な命題も数多く含まれ、人間に大きな意識改革をせまっています。

科学や技術を重視するSTEM教育の重要性が増すと同時に、芸術やリベラルアーツを含めてSTEAM教育とすべきといった動きが出てきているのも、こうした文脈に位置付けられます。

「行動する思考エンジン」を目指す本サイト「 engene」の第一回は、デジタル化・IT技術の活用について、デジタル思考とアナログ思考、人間性や感性、教育の視点から考えてみます。

アナログとデジタル

まず、アナログとデジタルを考えてみると、アナログは 連続的、デジタルは 非連続・離散的 です。デジタルとアナログの概念は波形でも表すことができます。

アナログは、曲線的・芸術的 で柔らかい印象で、デジタルは、論理的・技術的 で固いイメージがあります。

しかし、デジタル技術の進化で、デジタルカメラの画像も表現出来る階調が増え、解像度もより精細になり、アナログ的な柔らかい表現も出来るようになりました。何年か前のiPhone発表時、ボケ味を表現するフィルタが搭載されたときのデモで、BOKEH と連呼されていたのが印象的でした。

コンピュータによる合成音声も柔らかく自然な発音になり、CGと写真の区別もつかなくなってきて、もはや、多様な分野でデジタル技術とアナログ技術の違いは明確なものでなくなっています。

宇宙はデジタル?

そもそも、宇宙も極限まで細かく見れば、時間も空間もそれぞれ、

  • プランク長さ( 1.62×10 −35 [m] )
  • プランク時間( 5.39 × 10 −44 [s] )

に還元されます。

アナログ的に見える自然界も、宇宙の最小単位=プランクスケールという凄まじく小さい世界では、電子の軌道なども飛び飛びの値をとるわけで、離散的・デジタル的に構成されていると言えます。一方で、論理的・科学的に物質を分子→原子→素粒子と細かく見ていくと、素粒子レベルでは波のようなアナログ的な性質があらわれてきます。

量子論の世界では、存在自体が不確定で、11次元の膜(メンブレン)か、何らかの媒体が一定程度振動している状態を物質や量子として認識するというわけですから、ファジーというかアナログ的と言えます。

何が言いたいかと言うと、言葉というのは特定の状況を理解するため、状況を表現するために使われているものであり、時代や状況により常に変化しているものだということです。言葉が変化しているとも言えますが、そもそも、言葉が表現しようとしている対象自体が、状況や考察範囲や前提条件によって変化するわけです。

言葉の定義と対象としている事象を意識する

現代は、あらゆる言葉・概念が変遷、複雑化、複層化し、多様な意味を包摂しています。いや、古来、言語は複雑なもので、存在や事象が複雑なので記述する言語も複雑というべきでしょうか。

複雑な事象や概念を説明しようとすれば、複雑な言葉の組み合わせが必要になります。一方で、言葉に夢中になりすぎるのも危険です。言語と実体が離れないように常々気を付けていないと、「言葉だけ」の世界に迷いこんでしまいます。言葉に過剰な意味付けを与えてしまいます。

「理念・哲学なき行動は凶器であり、行動なき理念は無価値である」

本田宗一郎

言葉の特定の意味や解釈にとらわれすぎると、行動を伴わない思考ループに陥り、実体を伴わない机上の空論になっていきます。言葉が重視される世界では、批判ばかりの評論家、口先ばかりの文系インテリ、数字しか見ない管理屋が蔓延ります。会社であれば稟議書や始末書やらなんやら、実体と関係のない書類ばかり増え、管理部門が肥大化して、閉じた世界で官僚化していきます。

本田宗一郎に限らず、机上の空論、言葉遊びを戒めるように、数多の哲学者が言語世界の迷宮から抜け出すべく努力してきました。歴史上、「現実の事象と結びつかない言葉は発してはならん!」 といったことを言い出す哲学者が何人も出てきます。古くは物理宇宙とは別の理想としてのイデアを説いたプラトンに対して、現に物理宇宙に存在する自然や生命を尊重したアリストテレスにそういう一面を見ることが出来ますし、オッカムの剃刀で有名なオッカムや、論理哲学論考で言葉と事象のリンクを厳格化しようとしたヴィトゲンシュタイン、A・J・エイヤーなどにもこうした傾向を見ることができます。

乱暴に要約すれば、「わけわかんねぇこと言ってないで目の前の現象を見よ! 世の中の役に立つことしろや! 」と言ったとこでしょうか。

言葉や概念が示す内容を共有するのは難しいものです。現代分析哲学では、集合論、論理式等を使った数学記号による記述によって、議論をかみ合わせようとしています。最先端の学問から町場の与太話まで、言葉の定義を共有するのは簡単なことではありません。同じことについて語っているようで、全然違うものを想像していたりします。

日常を見回しても言葉の意味は多種多様に使われています。違うレイヤ=階層のことを言っていたり、カテゴリー=分野の違うことを同列に扱って話している人も少なくありません。結構、多くの人が言葉の定義や相手の状況を鑑みることもなく思いついたこと、言いたいことを言っているだけで、まともな議論になっていないのです。

自分自身が使っている言葉の定義、話し相手が同じ定義を共有しているかどうか、相手がその言葉から発火する記憶やイメージについても、意識してみましょう。

言葉に付帯するイメージや情動を感じとる

アナログ・デジタルという言葉も、文系・理系と同義語のような使い方をされている場面もあります。「わたしはアナログ派ですから〜」と言う言葉は、ITや数式や合理性や論理的なもの、面倒なパソコン作業など、もろもろから逃れるために使われているような気もします。

アナログ派は懐古趣味、デジタル派は新しもの好きという傾向もあります。最近はデジタル革命のかけ声も喧しいですから、デジタル派は何となく優越感みたいなものを持っているでしょうか。アナログ派はデジタル関係の用語に何となくイヤな雰囲気を感じているかもしれません。

本ブログでもITの活用を勧めていきますが、デジタル・アナログ関係なく俯瞰的にお読みいただければと思います。そもそも、文系・理系や、十把一絡げに○○派のような分類をすることに意味はありません。

しかし、世の人々は分けたがります。あいつは、右だ左だ。専務派だ常務派だ。バカだ、おぼっちゃんだ。働かないおじさんだ。オタクだ。オワコンだ・・・。分類して整理・理解することは必要ですが、あくまでも、統合・協調するためにするのであって、差別したり、攻撃することが目的化しているような分類は社会に害悪しかもたらしません。

あなたは何派?

わたしはデジタル推進派ではありますが、世の中をより良くするため、合理的にITを使うべきと思っているだけで、本質的に意義のあることが好きなだけです。ITで合理化・効率化することで、人の時間に余裕が生まれたり、より豊かな経験が出来れば良いなと思っているだけです。

しかし、ITを推進しようとしていると、誤解されることも少なくありません。ただの新しもの好きであったり、人間的なこと、自然なことに関心がないかのように思われたり・・・。

言葉に対してどのようなイメージを持っているか。少し自らの記憶を省みて、意識的になってみることも大切です。意外なことにアナログ世代の方が他者を肩書きや表面的属性でシロクロつけてみたり、物事を二元的にとらえる傾向があり、意外とゼロイチ思考のように思います。

一方のデジタル世代は、プログラム的な思考に慣れていて、多様な条件や環境の組み合わせでものごとが機能することを理解していますから、意外と複雑な意志決定構造を持っていたりします。

本来的には、アナログは連続的で、デジタルは離散的、ゼロイチのビットで構成されるというコアの言語イメージです。デジタル・アナログという言葉からの連想で、ITを好ましく思うか思わないかという分岐点が生まれてしまわないように、言葉に余計な先入観や固定概念を付与し、言葉によって深く分断してしまわないようにしたいものです。

本質から離れると多様な解釈や余分な概念が付け加わっていきます。そうした概念の広がりや移ろいを意識はしますが、とらわれないようにすることが大切です。

文脈・関係性・意図で変わる意味

コミュニケーションにおいては、良くも悪くも言葉に余計な情報がひっついています。会話の状況から都度、本質を解釈して、常に発話者の意図や表現したいことを理解するように心がけたいものです。

会話に「お前アホか」という言葉があったとしても、喧嘩の口火を切るものかもしれないし、より親しい関係性を築く言葉になるのかも知れません。

発話の状況や文脈に関係なく、特定の単語や言葉尻に過剰な反応をしても意味がありません。しかし、言葉の定義が曖昧なのに、その言葉から発火する思考がパターン化してしまっている人も多い気がします。

たまたま、ITベンチャーのちゃらい社長が「これからはデジタル技術だぁ」みたいなことを言っていたのを聞いた後は、ネガティブな印象になってしまっているかもしれません。あるいは、尊敬する高齢の経営者が、意外とデジタルツールを使いこなしていたことを知って、やっぱり、IT に真剣に取り組もうとポジティブに感じているかもしれません。

往々にして、発話者の意図がどこにあるかよりも、聞いている側の記憶内から単語に対するイメージが引っ張り出されて勝手な展開が広がっていきます。特に日本人は、会議や議論がへただと言われています。ただの連想ゲーム状態になってしまって、議題や議論のポイントも曖昧なまま、本質や文脈とは関係のない言葉が飛び交う非生産的なコミュニケーションも多すぎる気がします。

瞑想的な対話か連想ゲームか

ギリシャ時代の哲学者ソクラテスは、書き言葉は死んだ言葉だとして一切の文書を残さず、対話、問答を重視したと言います。釈迦も対機説法と言って相手や場の状況に合わせた教えを重視して文書を残しませんでした。

しかし、話し言葉は活きていると言えますが、ある程度、訓練された話者同士でなければ、妄想のぶつかりあいみたいなことにもなりかねません。

現代社会では、政治家や芸能人の発言を文脈と関係なく切り取って問題視するマスコミの弊害も大きいのですが、複雑化した不確定な情勢を正確に理解しようとすることなく、単純に色分けしてわかりやすい結果だけを求めてしまう人が増えているようで気がかりです。

たまにメディアやSNSの反応を見ていても、キーワードに対して反射的、情動的な反応をしているだけで、文脈を理解する能力、状況を俯瞰して見る視点、ものごとの因果関係を冷静に分析する思考、表面的な事象の裏に潜む構造を探求しようとする努力がどんどん失われている気がします。

しかも、現代の日本社会では、意外とこういう単純な思考をする方たちに世の中の権限が集中していて、広くて深い思考に耐えられない人が社会の重要事項を決定してしまっているようにも見えます。

言語を超えて考える

緻密に俯瞰的にものごとを進める能力の高い人よりも、言われたことをそのままやる人、上司の気分やその場の空気に迎合する人が重宝され、本質的な課題に取り組もうとする人は社会や組織の中で疎外されたり、会社や社会からドロップアウトしてしまうようなことも起こりがちです。

日本社会の息苦しさ、無意味な拘束力に気付いた若者は海外や外資系に進んでいる傾向も見受けられ、日本の活力が低迷する要因になっている気がします。

教育においても、論理的な思考を学ぶ機会が圧倒的に少なく見えます。一方で、論理や事実をふまえた上での感性を育む機会も少ないようです。結果として、文系は情動優位で情緒的になり、論理的な思考が苦手という傾向が強まります。一方で、理系は美的・情緒的な感性を育む機会がなく、杓子定規な論理が先行しすぎて、人間の理解や現実社会を立ち回る能力が不足していくことになります。

いまだに人間社会は情動優位ですから、論理的思考だけでは権力闘争や経済活動において、情動優位に負けてしまうのです。このことは日本の大企業経営者に技術系が少ないことの遠因にも見えます。結果的に感性が勝つのはアリなのですが、論理や合理性があまりに低ければ、社会はサル化していく危険があります。

さようなら、ボスザル

声が大きい人とか権力者に媚びる立ち回りのうまい人、学閥や過去の論功報償等で優遇されている人など、旧来の社会に適応した人が重要なポジションをおさえていて、どの業界も未来志向の改革が進みません。

旧態然とした、巨大な権威ある組織からは優秀な人ほど飛び出していき、古参や重鎮への追従者のみが残っていきます。会社であれば、経営者の周辺がイエスマンで固まっていきます。

学問の世界では、旧来の欧米学問の翻訳による追随で止まってしまっている分野も多いようです。日本の学問の弱体化の原因の一つに江戸時代の蘭学に始まり、当時進んでいた西洋科学の翻訳書に頼っていた弊害がいまだに続いていることもあげられます。脳機能学者、認知科学者であり、カーネギメロン大学で博士号を取得された苫米地英人氏が日本に帰国した際、日本の学識関係者からそんな学問はない、などとディスられた経験を著書で述べておられました。

最新の哲学が論理式や数式を使う時代になっても、いまだに日本の哲学者はカントを文学的に語っていて、最先端の分析哲学に見向きもせず、時代が止まっているかのようだと(10年程前の著書で20年前のことをお話しされていたので現在はもう少しまともなのでしょうか・・・)。

かなり前から欧米では哲学も経済学も数式や数学的概念が必須になり、理系の学問になっているというのに、日本は長いこと書物中心の記憶優先の学問で、自分の頭で考えることが出来ていません。

医学界でも医学書に書いていない症状は存在しないかのような扱いで、患者の症状そのものや治療に配慮がない、意識が向いていない、そんな医者に遭遇することもあります。しかも、その習った医学は何十年も前のことだったりして、全然、更新されていないのです。

米国の医学系大学では、気功や催眠療法、断食等の少なからぬ効果に着目して少なくともちゃんと研究しようという動きがあるのに、日本はあいかわらず、薬と検査と手術優先です。背景には巨大な薬剤会社や医療検査機器企業の存在もありますし、医療業界自体が従来の手法を自己否定しなければならない側面もあり、おそらく、業界自体が自浄的に変わることは出来ないでしょう。

宗教界も医学界も、大企業を中心とした経済界も政治も行政も、権威あると思われている業界や人ほど何周も遅れていて、現代社会に対応出来ていないように見えます。19世紀、量子論という新しいパラダイムの礎を築いたマックス・プランクの言葉が重くのしかかります。

科学は葬式ごとに進歩する

マックス・プランク

学会、宗教、地域社会、会社において、一定の業績を挙げた人が権威ある立場を構成して更新されなくなることで、進化が止まります。古参や重鎮が亡くなって、ようやく新しいパラダイムの時代がやってくる、という警鐘の句ですね。

しかし、葬式を待つわけにもいきませんし、現状をなげいていても仕方ないので、少しでも社会に貢献出来ることを考えていきましょう。

STEAM教育を考える

21世紀に入り、科学技術の発展が従来の常識を超えるものとなる中、科学技術の重要性が再認識されています。2000年頃から米国でも科学教育に力を入れるべきという認識が広がり、STEM教育というコンセプトが出されました。一部の州では法案としても成立しているようです。STEMは、以下の頭文字をとったものです。

  • Science(科学)
  • Technology(技術)
  • Engineering(工学)
  • Mathematics(数学)

STEM教育の重要性が言われ始めた後、Art(芸術)が追加されて、STEAM教育という概念も提唱されています。アート・芸術を理解するには、哲学や歴史などの理解がかかせませんので、人文科学も重要だとなります。結局、全部やる必要があるってことになりますが、少なくとも異分野にも興味を持ち、分野横断的な交流の機会を持つことは重要です。

派生というか、同じ文脈で語られることが多いSTEMとSTEAMですが、この2つの概念の差は大きなものがあります。日本でも理科離れが言われている状況や、前述しているように情動優位の社会のことも考えると、まずはSTEM教育に力を入れるべきではないかと考えています。

理科教育、科学的手法、論理的思考、事実に基づいた推論といった部分をしっかりやることが重要です。その上で、アートや感性を磨くことが必要です。論理があってこそ、アートや感性が活きてくるのです。安易にアートや感性を優位にすると、情動が優位になり、STEM教育の意義が薄れてしまいます。

ただ、STEM にしろ STEAM にしろ、幅広い分野にまたがるので、実践するには教育する側にも受ける側にも相当な意識改革が必要になります。一方で、小学校・中学校の先生方は、忙しくて新しい教育概念を導入する時間がありません。高校ともなれば、先生も生徒も受験で頭いっぱい。企業も日々の業務に追われて、分野横断的な人材を育てる余裕もありません。ここに大きな社会課題があるのですが、教育プログラムをどのように組めば良いのでしょうか。

シュタイナーの言葉を思い出します。

教育は科学であってはならない。アートでなければならないのです。

ルドルフ・シュタイナー

科学は再現性や同質性を求め、アートは即興性や多様性を求めます。カリキュラムを組まないと質を維持しにくいのですが、マニュアル化がいきすぎれば、まさにシュタイナーの警鐘通りになってしまいます。マニュアル教育、暗記優先教育では、次世代に必要な能力を伸ばすことが出来ません。

統合的・俯瞰的な学びの体系を

もう20年以上前になりますが、当時、熊野川小学校で教諭を務めておられた湊秋作さん(現在は関西学院大学教育学部教授)の依頼で、教材データベースを作成したことがあります。小学校6年間の教科書や副教材を俯瞰して見ることが出き、教科や副教材のコンテンツについて、教科を横断的に把握出来るようなものです。

全体を把握することで、教科や教師間を横断した連携を促進しようという試みです。簡単な例をあげれば、理科の実験や野外調査で体験したことを、国語の授業で俳句にしてみるとか、図工の授業で絵画にしてみるといったことです。最近では、小学校から英語学習が始まっていたり、2020年からはプログラミングが必修になります。いまこそ、小中高の12年を俯瞰して、教科に分断されない教育プログラムや教師が必要に思います。

具体的な解決方法は、地域や現場毎に異なる面もあり、画一的な解決先はありません。いずれにしろ、個人の興味・関心からスタートして、教科・学部にとらわれずに横断的に学ぶ経験が大切です。アクティブラーニング、プロジェクトベースラーニング、チャレンジベースラーニングなど、多様な考え方や実践がありますが、基本的な方向性は共通しています。意味のわからないまま、○○学を学ぶような学び方ではなく課題解決を先にかかげて、必要な学びをすることです。

わたしの個人的な経験になり、お恥ずかしい話でもあるのですが、十年程前に手掛けた仕事でようやく三角関数、ベクトル、行列の意味がわかりました。当時、ドームハウスの設計を支援するためにCADシステムをカスタマイズする必要があったのですが、矩(水平・垂直)が多い一般建築と違って斜めの線ばかりですから、三角関数やベクトル演算がいちいち必要です。敬愛するバックミンスター・フラーが考案したドームハウスの設計を支援するための仕事だったので必死に思いだしながらプログラムしましたが、学生時代にもっと数学を勉強しておけば良かったな、と実感しました。

課題解決に集中しよう

わたしの場合、独立してからというもの、幸運なことに面白い仕事に携われる機会が多くありました。いま思えば運も良かったのですが、ふらふらしつつも好きなことや関心のあること、意義のありそうな方向に向かって努力することで良い縁に恵まれたものと思います。

マルチメディア百科事典や、CADシステムのカスタマイズ、IoT/Fab 系のシステム開発など、新しいチャレンジの機会が何度となくあり、学びの幅を拡張し続けることが出来ました。最近でも興味深い仕事に携わることが出来ています。

新しい分野や難しいチャレンジとなるような案件でも、顧客に満足してもらえる成果を挙げてくることが出来たのは、CAD、データベース、グラフィックソフト、ネットワーク、プログラミングなど、基本的なITスキルを身につけていたおかげだと考えています。

基本的なITスキルを体得し、学ぶ姿勢を持つことさえ出来ていれば、課題を解決していくことが出来るのです。個人的には、自分自身がいくつになっても学ぶ姿勢を持ち続け、自らの仕事や学んだ経験を共有することが、次世代の教育につながればとも考えています。こうした課題に少しでも貢献できるように意識して、このブログも書いています。

世の中でデジタル化、デジタル・トランスフォーメーションの重要性が叫ばれる中、「デジタル」という言葉にとらわれて、本来の課題解決に向かうべき思考が疎外されて欲しくないなと思っています。あくまでも、課題解決が目的です。デジタル・アナログとか、古い・新しいとかにこだわらず、課題解決に最適なソリューションを見つけていくことが重要です。課題を解決していきましょう!

参考書籍

アリストテレスの古典的三段論法から、フレーゲの量化詞・集合論、ラッセルのパラドックス、ゲーデルの不完全性定理、チョムスキーのユニバーサルグラマー、ニューラルネットワークなど、論理や言語、人間の思考を考える上での基本的トピックを概観できます。漫画チックなイラストが多くて気軽に読めますが、論理学の先人たちの思考を俯瞰出来る良書です。

NM法、創造工学の創案者として有名な中山正和氏が、仏教の教えを構造的・科学的に説明しようと試みていて興味深い本です。虚数と複素数、ミンコフスキーの光円錐、イメージ記憶や言語記憶の関係などもまじえ、物理世界とは別のところからおりてくる直感の構造を考察しています。ダニエル・カーネマンが「ファスト&スロー」で定義したシステム1とシステム2のように人間には、言語による論理的な思考、イメージや情動による論理を超えた思考があります。非言語、イメージの世界とのつきあい方を考えさせてくれる良書です。

主張・クレームにはデータ・ファクトが必要で、主張とデータをつなぐ論拠・根拠が、ワラントです。こうした論理構造の基盤を提唱したのが、後述するスィーブ・トゥールミンの「The Uses of Argument」です。本書は、競技ディベートを紹介しつつ、論理と議論のポイントを日本語でわかりやすく解説してくれます。

なにごとも出来るだけ、原典・一次情報を確認する習慣を付けたいものです。英語で600ページ以上もある本なのでなかなか完読とはいきませんが、確認したいポイントなどを参照しています。日本語訳が出てくれると良いのですが。

シュタイナー教育は理念や理想はわかるどけど、運用が難しそうですし、なかなか実際のところを知る機会がありません。本書は、チェコのシュタイナー教育を実践する学校でご自身の子どもを学ばせた増田氏の体験記で、先生や他の生徒との関わりなど、リアルな様子を知ることが出来ます。

原題は「Rewiring Education」です。Appleで教育部門を担当するジョン・カウチ氏が教育のリワイヤリング=再配線、再構築を提唱するものです。近代産業・大量生産時代の礎として管理手法を築いたテイラーにまで遡り、画一的な労働者を育成するための教育の行きすぎた結果として現代教育の問題をとらえています。中学校から勉強がつまらなくなった話など、共感することが多くありました。ご子息が高校生のときにカエルの奇形を研究されたときのエピソードがとても興味深いものです。自発的に知りたいと思い仮説を立てた彼はインターネットで調べて大学教授に連絡を取り、夏休みが終わる頃には原因を解明して発表してしまいます。同じ頃、カエルの奇形を研究するという大学に多額の補助金が交付されることが決まったというニュースが新聞に掲載されていたというオチ付きで、教育や研究のあり方を考えさせられるエピソードです。

こういう分野横断的な領域は広く浅くなりがちですが、本書の内容は STEAM の考え方を俯瞰するものとして参考になります。ただ、スティーブジョブズを始め、昨今のシリコンバレーの成功者を STEAMで括って賞賛している感も強くて、STEM が本来提起していた根幹を逸脱する懸念も若干あります。もちろん、論理や合理性を超えたデザイン思考や直観が大切なことには合意なのですが、本書のような取り上げ方をするとSTEM教育本来の意義をすっ飛ばして誤解されてしまうことが懸念されます。こういう取り上げ方をすると、技術軽視のちゃらいやつ、デザイン優先の中身のないやつをより強化してしまわないかが心配です。ですが、技術と感性の統合を目指す技術志向の方や教育関係者の方には読んでもらいたい本の一つです。

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