大哺乳類展から考える分類と系統

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文字数:13,475字 | 読了目安: 約17分 | 公開日:2024.06.16 | 更新日:2024.06.24

2024年3月〜6月、国立科学博物館で「大哺乳類展3-わけてつなげて大行進」が開催されました。

本ブログでは2019年に大哺乳類展2のテーマであった哺乳類の「生存戦略」から学べることを考察しました。今回の大哺乳類展3は「わけてつなげて大行進」ということで、分類と系統がテーマです。

情報システム開発やAI構築においても、分類と系統は重要な概念の一つです。今回は、情報技術にも通ずる分類や系統の本質的な概念を考えていきましょう。

分類の奥深さ

現在、確認されている哺乳類は6,500種以上とも言われています。これほどまでに進化を遂げた生命の多様性に驚きますが、分類する人間もよく分類したものです。分類という行為には、寓話のテーマにもなっているように哺乳類と鳥の両方の属性を持つコウモリがどちらに所属するかを問われる「こうもり問題」も存在します。

そもそも、この「種」という概念自体が意外と簡単なことではありません。分類して名前を付けるという行為も深く考えれば、哲学的な思索も避けて通ることが出来ないものです。

実在論と唯名論、普遍と個物、言語論など、不毛な言葉遊びの迷宮に入り込んでしまう可能性もあります。

そこで役立つのが、認知科学や分析哲学、コンピュータプログラミングの考え方です。上滑りしがちな思考もプログラムとしての実装を考えることで、論理的な構造としてシミュレートできるからです。

今回は情報システムやビジネスの概念構築にも共通する本質的なエッセンスについて考えてみましょう。

どっちに入れるの?

分類を考えるとき、何を基準に体系化するか、その体系をどのような用途で利用するかによって適切な分類も異なってきます。

「どっちに入れるの?」 問題は、

  • 多様な種に進化した生命の分類
  • 書類のファイリング
  • パソコンのフォルダ分け
  • 業務における役割分担

など、多様な場面で直面する普遍的な命題です。

境界上の存在たち

種の定義の1つに、持続的な繁殖が可能かどうかが挙げられます。今回の大哺乳類展ではレオポンの剥製が展示されて、種の定義について解説されていました。ヒョウとライオンを交配したレオポンは子孫を残せないため、ヒョウとライオンは別種とされています。

上段左がヒョウ(Lepard)の父、右がライオン(Lion)の母、下段がレオポンの剥製 @大哺乳類展3

逆にもし、レオポンが繁殖出来たら、ヒョウとライオンは同種とするのでしょうか。あるいは、レオポンを新種として分類するのでしょうか。

犬は人間の選別による交配で実に多様な形態と性質に分化していますが、生物学的には同種です。アメリカン・ピット・ブル・テリアのような大型で凶暴な犬種と、小型でぬいぐるみのようなポメラニアンが同じ種というのも不思議な感覚です。

「境界上の存在をどのように扱うか」は普遍的な課題です。ビジネス業務であれば部署間にまたがるような領域で役割分担に空白が生まれたり、見てみぬふりや押し付け合いも起こりやすくなります。身近な地域活動や家事でも同じことですね。

学問でも既存の枠組みで取り扱いが難しい境界上に、学問的な空白が存在しがちです。近年は分野横断的な研究や学際的という表現で異なる分野をつないでいくことが、新しい発見や価値創造につながっていくものとして取り組みが増えているようです。

そもそも文系・理系の分断に代表されるように、学問の分野を専門ごとに分類すること自体の弊害を指摘する声も少なくありません。

いずれにしろ、分類する目的によって基準を定義することが重要です。

定義の難しさ

科学でもビジネスでも対象を定義する上での基本として、MECE(Mutually Exclusive, Collectively Exhaustive)が挙げられます。MECEは、相互に排他的な項目を列挙して完全に網羅することを意味しています。要は、「モレなくダブりなく」定義しましょうということです。

MECEは基本的な概念ですが、網羅的かつ整合的に基準を定義するのは身近な問題でも意外と難しいものです。

哺乳類の分類で言えば、乳で子育てすること、子宮と胎盤を持つこと、頸椎が7個であることなど、共通する部分が哺乳類としての基準になります。

種の分類では、モグラを例にとると、歯の数や骨盤の癒着度(後脚の運動を司る内閉鎖筋が通る孔の有無)など、異なる部分を比較して判断します。

共通部分と差異部分を列挙して分類していくわけですが、古来、カモノハシ、ハネジネズミ、ツパイ、ヒヨケザルなど、分類学者を悩ませてきた種が少なからず存在します。

カモノハシは、鴨のような嘴で卵を産み育てますが、乳線を持っており、哺乳類の単孔目に分類されています。大航海時代、オーストラリアから欧州に持ち帰られた標本は、複数の生きものの剥製をつなぎあわせて剝製士が創作した偽物と疑われたほどでした。

嘴の形態や卵を産むことに着目すれば鳥類に分類したくなりますが、乳で子育てするなら哺乳類に分類したくなります。

食虫目の分類展示@大哺乳類展3

わけること、つなげること

鳥の定義を「空を飛ぶこと」とした場合、空を飛べないペンギンやカカポは鳥ではないのか、という問題に直面してしまいます。

形態、性質、生態、行動、生息環境、地理的分布、地質、遺伝子など、多様な条件を組み合わせて、共通する部分、異なる部分を識別していくことで、系統的に分類する方法が考え出されてきました。

多様な条件で細かくわけることと、共通点を探して系統的な変遷を考慮してつなげることで、部分と全体を整合的に体系化していく作業です。

現時点で横を見て分類する分類思考と、進化の過程を時間軸でつなぐ系統樹思考が、いわば織物の縦糸と横糸のような関係として紡がれていくわけです。今回の大哺乳類展のテーマが、「わけてつなげて大行進」となっている所以です。

詳細な部分のデータを大量に集積することで、全体が見えてきます。全体を俯瞰することで、部分を詳細に認識することが出来ることもあります。心理学用語としても知られるゲシュタルトは、部分と全体を整合的かつ体系的に構築出来た状態をさしています。

全体と部分は相補的であり、常に両側を見ておくことが必要です。情報技術、知的生産の技術としても、帰納法と演繹法、集中と発散、タテとヨコの両側から思考して、構築した情報空間で仮説検証することで、より適格な判断をくだすことができます。

汎用化と例外処理

生きものの分類と同様にビジネス上のルールにおいても、コウモリやレオポンのように一義的な定義では分類できないやっかいな存在がいるもので、システム化する上でも障害になることがあります。特に日本企業は顧客の要望に細やかに対応しており、安易に定形化出来ないことが多いものです。

汎用的な定義と、例外に対応していく作業が必要になるわけです。コンピュータのプログラミングにおいて、プラグラマも常にこうした問題に向き合っています。

コンピュータはプログラムが分類した通り、指示された通りに動作します。そこに曖昧さや忖度は存在しないので、プログラマは分類基準を明示的に定義し、判定の閾値を明確な基準で設定する必要があります。

定義と歴史

生物学の分野では、新種なのか亜種なのかで論争が起きることもありますし、DNAと系統解析に基づいて分類する傾向が強くなり、分類にも大きな変革が起きています。

近年のDNA解析により、遺伝子を発生学的に系統立てた系統樹として分析することで、その種がどのように進化してきたかを推定して分類する手法が確立されました。

カバなどの偶蹄目とクジラが共通の祖先から進化したことが推定されるようになり、鯨偶蹄目として統合されたことが有名です。鳥類学においても、タカ目に分類されていたハヤブサがインコに近縁であることが判明して、2012年の日本鳥類目録の改訂でハヤブサ目として独立した分類となりました。

ここで理解しておきたいことは、定義と基準によって分類も変遷していくものだということです。そして、その変遷と歴史を知ることが、現在、過去、未来を推定する手がかりにもなります。

ビジネスの世界でも、変遷や歴史を把握しておくことは重要なポイントです。会社、商品、市場、顧客を分析するとき、現時点での分類における定義や基準を確認することはもちろん、それぞれのカテゴリーごとの歴史や変遷を理解しておくことが効果的です。

定義と基準、歴史と変遷を考える

定義と歴史を掘り下げて考えることは、より実践的な現状分析から将来の市場予測まで、多様な場面で活用できるはずです。

そこで、情報空間の歴史と変遷について、少し考えてみましょう。

百科事典の歴史

昭和以前は、書籍としての重厚な百科事典や辞書が知的生産の源泉でした。百科事典に対する信頼度も高く、書物中心の情報空間は知識の対象が静的でした。学問の進化もゆっくりで、体系的に理解しやい時代だったとも言えます。

1990年代後半からは百科事典もデジタル化が進み、CDやDVDで発行されるようになります。この時代はまだ、書籍の百科事典をデジタル化したものが多く、権威ある出版社と執筆陣、監修者によって編纂されていました。

我が社でもデジタル百科事典のコンテンツ制作やローカライズの仕事に携わっていましたが、当時は編集部も相当な規模で、編集制作・事実確認には膨大な労力が注がれていました。

2000年代に入るとインターネットが爆発的に普及する中、Wikipedia の台頭もあって、百科事典を編纂・発行してビジネスとして成立させることが難しくなります。製品として販売されていた百科事典は書物もCD/DVDも次々と販売中止に追い込まれていきました。

現在は、Wikipediaとインターネット上に分散したコンテンツに情報空間が移行することになりました。ネットは便利なものですが、不特定多数の匿名の編集者による情報の信頼性には留意が必要ですし、常に編集されている動的なコンテンツとして、認識しておく必要もあります。

科学の進化する速度も劇的に速くなり、学際的な分野も増え、全体的な情報空間を網羅的かつ整合的に構築することがますます難しくなっていきます。現代社会では情報が複雑多様化し、玉石混交なカオスの中で、知識体系を動的にアップデートしていくことが求められています。

世界は微分的になり、微細な変化への適応に追われているうちに、全体を整合的に体系化する概念が希薄化しています。

インターネットと検索エンジン

インターネットに移行した情報空間で重要な役割を担うのが検索エンジンです。検索エンジンの歴史と変遷についても考えてみましょう。インターネットの黎明期、数多のWebサイトが制作されると、索引 = インデックスとしての機能が重要となり、ディレクトリ型検索エンジンのYahoo が急成長しました。

しかし、ディレクトリへの登録は人の手を介して行っていて、こうもり問題のような分類のジレンマもあり、徐々に使いにくくなっていきます。やがて、全文検索エンジンのGoogleにその地位を明け渡すことになりました。

パソコンのファイル管理も厳密にフォルダで分類するより、ざっくりと分けて検索する使い方が主流になっていきます。メールの分類もラベルやタグを活用することが増えています。

タグやラベルでリスト化した上で、キーワードや期間などを組み合わせて検索することが出来るので、各メールをどのフォルダに分類するか悩むことが少なくなりました。

こういった変遷が社会やビジネス、生活や人間性にどのような影響を及ぼしてきたか。現状の課題と将来の姿を俯瞰して考えてみましょう。

分野・階層・文脈・論理

全文型検索エンジンの進化で、分類に悩む時間を節約出来たのは良いことですが、一方で大きなデメリットが生まれています。それは、人間がものごとを深く考えなくなることです。

人間が自ら考えて情報を分類していた時代は、新聞や雑誌を切り抜いてスクラップブックに保管したり、自分で索引を作成してファイリングを工夫していました。対象の本質や意味、カテゴリや情報の階層性と帰属性、どのような場面で対象となる情報を利用するか、といったことを考えて整理していました。

ところが現代では、とりあえずパソコンやスマホ、あるいはクラウドに情報を保存しておけば、後でいくらでも検索することができます。結果として、一つ一つの情報について、分類、重要度、特性、階層性、帰属性、意義などを考える機会がどんどん減っています。

ぼくらの若い頃は、新聞を切り抜いてスクラップブックに保管したり、コピー機もなかった時代は書き写したりしていました。こうした行為が、個別の情報について深く考える機会になり、情報を体系化して統合した全体像を確立することにつながっていました。

一方でデジタル時代は、とにかく新しい情報や、視覚的に刺激の強い情報が重要に見えてしまいやすく、情緒的な発信にも振り回されるようになります。デジタル空間では、情報がフラットに見える傾向があり、重みや階層性、重要度の優劣が判断しにくくなります。

本来、情報はカテゴリー(分野)、レイヤー(階層)、コンテキスト(文脈)、ロジック(関連性)など、多面的に解釈することが重要です。

カテゴリー(分野)、レイヤー(階層)、コンテキスト(文脈)、ロジック(関連性)で考える

判断力の短絡化が招くもの

ところが、近年はますます、重要度の大小が異なる問題を同列に捉えていたり、カテゴリーの違う問題や論理的に関連性のない問題を結びつけてしまっていることが増えていて、情報空間の短絡化・矮小化が進行しています。

ここ数年でぼくが驚いたことの1つに、コロナ騒ぎの渦中に実施されたGoTOキャンペーンがありました。

わずか数千円の割引を受けるために、健康上の重大なリスクも予見されるワクチンを打ってしまう人があまりに多かったことは衝撃的な出来事でした。遺伝子製剤とも呼ぶべき新しい技術であるmRNAワクチンのような化学物質の集合体を直接的に体内へ取り込んでしまうことのリスクと、数千円得することのメリットは比較する対象としてのカテゴリーも重要度のレイヤーも違い過ぎて、あまりにもバランスが悪い判断です。

メディアを牛耳る金融資本勢力は、洗脳的な手法で我々一般市民を欺してきます。本来、感染症が拡大することを防ぐためにワクチンを打つことが大義名分とされる社会状況を作り出しておきながら、旅行を推進するという政府の判断は、あまりにチグハグで異様なものでした。コンテキスト(文脈)を考えれば政府の目的は感染症の拡大防止でないことは明白です。

感染症のリスクが実はたいしたことがないことをわかった上で、旅行利権のために旅行を優遇し、医療利権のためにワクチンを推進したとしか考えられませんでした。

理性的な人は情動と損得感情に振りまわされることなく、利権で腐敗した構造に気付くことができていたようです。ぼく自身は、直感的におかしなことが起きていると感じ、政府や製薬企業の責任者の人相と言動を見て疑惑を深め、多様な情報源を調べた上で多面的に考えて、確信しました。

一方で、部分的には優秀に見える人たちが意外と情緒的かつ短絡的、強権的な全体主義的で、矛盾した判断をしていていることが多かったように思います。

専門分化の行きすぎた現代社会は、狭い分野での優劣に依存しているうちにアタマでっかちになり、全体像を整合的に体系化する思考が欠如してしまっているのです。

知的生産の技術

昭和の時代は知的生産の技術として、京大式カード、KJ法、NM法などが使われていて、情報を整理し、体系化して理解するまでが重要な思索活動として認識されていました。

アナログ的な手法で情報整理に費やす時間が、データの詳細な把握とともに、情報の関連性を読み解く想像力を養い、対象となる情報分野の整合的に体系化された全体像(=ゲシュタルト)を構築することにつながっていたわけです。

ところが、検索すれば何でもわかった気になれてしまうネット社会では、短絡的で情緒的な思考が反射的に起こるままに流されていきます。

プログラマの世界でも10年ほど前までは、オブジェクト志向プログラムが全盛で、対象を抽象化してクラスとして定義するなど、構造や特性を深く考えて体系化したプログラムを構築しようとする傾向がありました。

オブジェクト志向プログラムは、哲学や科学にも共通する根源的な深い思考、抽象度の高い思考を必要とするものでした。

当時のプログラマは、あるべき論、そもそも論にうるさく、プログラマが二人以上集まれば、何かとすぐに議論が始まる面倒な人が多かったものです(^^;)。

ぼくらの時代のプログラマは、良くも悪くもものごとを深く考えていました。しかし、こういうタイプのプログラマは、いまや絶滅危惧種かもしれません。近年は関数型プログラムに回帰するようになり、良く言えば実務的で合目的的で、悪く言えばその場しのぎ、やりたいことが出来ればそれで良いという傾向です。プログラマも良く言えばスマート、悪く言えば深く考えることが少なくなりました。

どちらかと言えば、さくっと流行の技術を実装することが求められる傾向が強くなっているように思います。

そこへきて、今回の AI ブームがやってきました。

AIを適用する技術

現在のAIは既存データから統計的にもっともらしいデータを生成しているだけで、真実性の保証も、現実の世界に適合している保証もありません。

意図的に偏向したデータをAIに学習させることでハッキングする手法も研究されており、AI の出力結果を懐疑的に見る意識は常にもっておく必要もあります。

ぼくらエンジニアは、AI を構成しているロジックや、学習させた元データはどこから持ってきたものか把握して考えなければならないわけです。AIをどう社会に適合させていくか、倫理的、哲学的な命題も考える必要があります。

しかし、金儲けに貪欲な金融資本勢力、支配力を強化したい各国政府、名誉と権威を求める学者、競争に奔走する企業は、倫理も人間性を省みることもなく、AIを活用して自己の利益を最大化することばかりを考えています。

一般の市民の方も、AI が何を基準に判断しているかを考えることもなく、倫理的問題を考慮することもなく、AI に依存する人が増えています。AIの普及が進むにつれて、情報空間の短絡化がますます進むことが懸念されます。

現代社会において、学校では教師の言うことを聞き、会社では上司の言うことを聞き、マニュアルや規定に従うように教育されています。Google か Yahoo で検索して、ChatGPT に聞いただけで、結果を無条件に受け入れてしまうようになり、自分の頭で考える機会がどんどん希薄になっています。

こうした知的環境、情報空間に生きていると、思考の自律性を奪われ、何かに従う行動規範が強化されてしまいます。いわば奴隷的な精神性になってしまうことが懸念され、AI時代にはビジネスの成功も人間としての幸せも得られなくなるように思います。

AIに従うのではなく、本質的な概念を自分の頭で考え、本質的な概念構築を精緻に行い、定義と歴史、抽象度と階層性、重要度と倫理性などを深く考え、AIを使いこなす意識が重要です。

生物学、博物学、分類学といった分野の思考をトレースしてみることが良い思考訓練になるはずです。また、より実践的には認知科学や分析哲学を知ることも効果的です。本来の意味でのAI = 人工知能を開発するため、コンピュータに知識と判断基準を教える過程で進化したのが認知科学や分析哲学です。

2つの方向性

ここまで考えきたように、思考には2つの方向性があります。真理を探究しようとする哲学的な思考と、利用目的に合わせた道具としての思考です。

原始人の価値観では、世界への関心は対象物が

食えるか、食えないか。

だけだったかもしれません。

要するに、食えるものか、食えないものかさえ分類されていれば良いという考え方です。どのように使うかの目的がはっきりとした道具としての分類と言えます。

人間は自然界を見て、食えるか、食えないか。役に立つか、役に立たないか。

危険か、危険でないか。敵か、味方か。

こういった分類をして生存してきました。分類することは、人間のDNAに刻まれた本能なのかもしれません。

探求心による分類

分類本能の究極の姿が、分類学やオントロジーです。物質から事象にいたるまで、「存在」について徹底的に考察して、概念を体系化していきます。分類学やオントロジーは、哲学と同じで即物的には役に立たない学問分野かもしれません。

本来、科学にも宗教にも共通しているのは世界に対する純粋な探究心です。別の言葉で言えば、対象に対する愛とも言えるかもしれません。科学好き、図鑑好き、いきもの好き、コレクター、マニア、オタクにも共通しているのは、対象について知りたいという根源的な衝動です。

道具としての分類とは対極のあり方です。知的好奇心、真実を知りたいと思う欲求に駆動された分類です。分類学者の三中信宏氏が「分類せずにはいられない・・・」と言う知的格闘とも言える思考です。

興味のない人からすると、「そんなのどっちでも良いじゃん」と言われてしまうようなことが気になって仕方がない人たちがいるわけです。

今回の哺乳類展でも、こんなにも多様な種が存在していることに驚くとともに、これらを学術的に正確に分類している人たちがいることも驚きです。そして、学術的資料としてのこれだけの剥製、標本や資料を管理・保存している国立科学博物館の凄さにも驚嘆します。

こうした探究心は、忙しい現代社会では忘れ去られがちです。真実・真理への関心が希薄になり、目の前の問題と欲求を解決することに思考とエネルギーが費やされてしまいます。

学問の世界も短期的な利益を求められるようになり、真実・真理の希求が脅かされています。2024年、国立科学博物館も収蔵品の管理に関わるコスト増に耐えられず、クラウドファンディングを実施しました。

幸い目標を超える9億円以上の資金が集まったようで、一安心です。しかし、本来は国家の知的源泉とも言える国立科学博物館の活動は国が賄うべき費用です。複雑な想いもありますが、国民の側に科学博物館の活動を支援する志があったことは幸いでした。

科学・文化の発展・維持が国民的な活動として広がっていくことを期待したいものです。

科学に隠された嘘

現在、科学は危機的な状況にあります。あらためて、統計でもデータ解析でも、分類の定義と基準を確認すること、真実・真理を探究する姿勢がとても重要です。別の記事で何度も取り上げていますが、現代科学は腐敗しており、「統計学的に有意差が認められました」なんていう論文や資料を鵜呑みにしていたら騙され続けることになります。

医療系の治験請負企業が、「有意差保証」を唱うサービス広告を出しているのを見たときは、呆れるしかありませんでした。薬の効果を始め、データを統計的に分析する場合、条件を都合良く組み合わせて評価することで、いかにも効果があるように見せかけることは容易なことなのです。グラフの見せ方などでも良く行われる詐欺的な行為であり、科学の腐敗の象徴です。

先のmRNAワクチンでも、抗体が出来るまでの2週間はワクチン接種が完了していないものとして未接種に分類することで自然免疫が低下する危険な2週間を製薬企業に都合が良いように評価していました。

実際はより複雑ですが、例えば0〜2週間は成績が悪く、8週間以上経過後も悪い結果が出ているような場合、2週間〜6週間後で比較するように治験を定義すれば、良い結果を提示出来るというわけです。

AI の活用においても学習データを細工することで、AIを偏向させることが出来てしまいます。意図的に悪用するものに警戒が必要なことはもちろんですが、自らAIに間違った判断をさせないためにも、AIを使いこなす人間には、真実・真理を探究する姿勢、原理・原則を探求する意識が重要です。

道具としての情報システム

真実・真理を追究する一方で、現実世界に適合させる作業も重要です。

少し事例をあげて考えてみましょう。生物学では収斂進化という概念が知られています。

異なる環境で異なる進化を遂げてきたはずの種が、とても似た姿や生態になっていることがあります。フクロモモンガは、オーストラリアに生息する有袋類ですが、日本にもいるモモンガと同様に、皮膜を持ち、樹間を滑空で移動します。このような進化を収斂進化といって、異なる地域で進化してきたはずの種が、同じような形質や生態を持つことが知られています。

生物学的に進化系統を見れば、モモンガはげっ歯目、フクロモモンガは有袋目という遠く離れた別の目に分類されています。しかし、皮膜を持ち滑空する動物という分類では同じカテゴリーに属していると言えます。

マレーやフィリピンに生息するヒヨケザルも皮膜を持ち、樹間を滑空するいきものです。ヒヨケザルも霊長類、翼手目(コウモリ)、食虫目の特徴を持ち、分類学者を悩ませ続けましたが、現在はヒヨケザル目として独立して分類されています。

複数の分類を使い分ける

道具としての情報システムでは、真実・真理はいったん横において、利用状況や目的に適した分類と体系を採用することも必要です。実用上は、分類や体系を目的に応じて使いわける発想です。

近所の公園で見かけた野鳥のことを知りたいと思って、野鳥図鑑を調べたら最初のページが「アビ」なのはどう考えてもミスマッチです。

※アビは、進化系統の上で原初的なことが想定される水鳥で、学術的な野鳥図鑑では最初に登場することが多い種です。

近年は、生息場所や大きさなどで検索しやすくして、公園や街路樹で見かける鳥といったように利用シーンに最適化された野鳥図鑑も増えてきました。

形質、生態、行動、生息環境、地理的分布、遺伝子など、体系化するポイントによって、利用する状況に合わせて分類を使い分けることが出来た方が人間の思考にマッチするわけです。

我が社で開発しているアプリ「野鳥の鳴き声図鑑」でも、色、名前の五十音順、生物学的分類、大きさ、生息環境などを組み合わせて検索できるように構成しています。

名前は、種名の五十音順以外に、科順、科名の五十音順で並べかえて一覧して、種名で検索できます。大きさ順で並べて、色・生息環境でフィルタしたり、自分のリストを作成することもできます。

また、生物学的分類については、2012年に鳥類目録が第六版から第七版へ改訂されたため、アプリに分類の切り替え機能を追加して対応しました。従来の分類に慣れている人は、従前の分類を使い続けることも、最新の分類を使うことも出来るようにしています。

複数の分類を使い分けることができるのは、紙の書籍にはないアプリならではの利点です。デジタル技術をうまく活用することで、多様な分類と体系を切り替えて情報を扱うことでき、利便性が高まるとともに、新しい気づきを得られる効果もあります。

ユーザー自身が分類と体系化基準を意識した使い方が出来る要素を残しておくことが重要です。いま流行のAIチャットに聞いて結果だけを返されるようなユーザーインターフェースでは、対象となる情報空間のゲシュタルトが構築されにくくなります。

AIチャット型のコミュニケーションに依存するようなユーザーインターフェースは、人間の推論能力や思考能力を衰えさせる要因となる懸念があるのです。

人間の思考と能力を拡張するユーザーインターフェースを大切にする

人類がAIとともに進化する道

哺乳類の分類と体系から情報システムやAIまで、広範な概念について考えてきました。情報システムは、利用する人間側と一体で考えるべきものです。

AIよりAI + HI

ある人工知能学者から軍事分野の研究についての話をお聞きしたことがありますが、最先端の軍事分野ではAI + HIの勝負になっているようです。

人工知能による解析結果を人間が扱いやすい形で提示して人間が最終的に判断する 、AI = Artificial Intelligence とHI = Human Intelligence を組み合わせた手法です。

将棋の世界でも、AI vs 人間では人間が負けてしまう時代になりましたが、これからは、

AI (A) +人間( A) vs AI(B) + 人間(B)

という構図になっていくことでしょう。

分野や利用状況に合わせてAIを最適化していくこと、さらに人間の判断を効果的に統合していくことが、これからの情報システムに求められています。

ユーザーインターフェースの重要性

地図においてもGoogle Mapを使うようになって、次に進む目先の方向を指示されないと進めない、地図を読めない人も増えたのではないでしょうか。昔は紙の地図を見て3次元記憶と整合させて認識していた空間把握能力もすっかり衰えてしまいました。

あらためて、コンピュータと人間のユーザーインターフェースが問われています。

特に近年は、LINEのような短文コミュニケーションが増えていたところに、ChatGPTに代表されるAIチャットも流行してしまって、人間の質問にAIが回答するというスタイルが流行してしまっています。

データやプロセスを隠蔽して、結果だけを返すようなチャット型のユーザーインターフェースを利用していると、人間はコンピュータの指示に従うだけの行動規範に誘導されていきます。

本当にチャット形式が適切なUIなのか。そろそろ、巷のWebサイトにはびこるAIチャットを再考すべき時期です。AIチャットはあまりに酷い事例も多いので、別の記事でも取り上げたいと思います。

ぼくは、ユーザー自身が多様な条件を指定して、組み合わせで操作出来ることが重要だと考えています。しかし、こういった条件指定が煩雑に見えることから、ユーザーに細かい条件指定をさせないユーザーインターフェースも増えています。

対話型の操作系がうまく行っているときは良いですが、期待通りの結果が出ないときはまだるっこしいものです。データ構造を理解しているユーザーにしてみれば、プロンプトのような文章で指示を出すより、データ構造の項目をダイレクトに指定できた方がよほど効率的です。

どの分野でも、人間側のスキルを組み合わせて構成することがいろいろな意味で重要です。全体をシステムとして見て、いかに人間の智慧を組み込むかが鍵になります。

軍事研究の例を紹介したように、人間の側の能力を衰えさせることなく、逆に人間の能力を高めるようにしてコンピューターと協働させることが、最強のパフォーマンスを発揮することにもつながっていきます。

大哺乳類展3の展示から分類と系統をテーマに、情報システムの構築、人間の智慧のアップデートまで考えてきました。人類にとって、運命の分岐点とも言えるAI シンギュラリティの日は近づいています。果たして、より高度な知性を持つ哺乳類へと進化するのか。AI に盲従する奴隷となるのか。選択の日は日々せまっています。

関連情報

2019年、大哺乳類展2のときに生存戦略をテーマに書いた記事です。

「分類思考の世界」の帯には「分類せずにはいられない・・・生物学者たちの知的格闘史」とあるように、あまり生真面目に読むと疲れる本ですが、分類を根源から考える書です。たまに「系統樹思考の世界」「系統樹曼荼羅」と合わせて読み返すと毎回、新たな気づきがあります。

1980年代から人工知能を研究していた苫米地英人博士による認知科学の解説書です。現在のAIブームを駆動している機械学習・深層学習の基本的な原理は1980年代には確立していました。

コンピューターパワーが追いついていなかったことや、学習させるデータが少なかったことから、実社会にインパクトを与えるほどの成果が出ていませんでしたが、2010年代以降、デジタル機器のコモディティ化によるデジタル化の進展で学習データが爆発的に増えました。

さらに、GPUを深層学習に利用することで計算能力も劇的に向上したことで、膨大なデータと機械学習の計算が実用的なレベルで収束するというパズルのピースが揃ったわけです。

本書では、こういった人工知能研究の本質的な課題から多様な学説と歴史や経緯など、わかりやすく解説されています。

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